2018年3月9日金曜日

「平昌五輪」 ―― 近代スポーツの宿命と結晶点


金メダルを獲得した日本女子団体パシュート
1  自らが背負った負荷を昇華する高梨沙羅の「恐怖超え」





近代スポーツの発祥地・ラグビー競技を生み出した「ラグビー校」(ウィキ)

近代スポーツは、の好奇心に睦み合うように作られていく

そこで作られた新種のスポーツは、時代の鮮度が削(そ)がれることがないように、万全のルールを作り、「より面白く」・「より緊張感を保証」し、観る者と一体化する競技を構築していく。

「競争性」と「偶発性」によって成る近代スポーツの本質である、「競争的偶発性」の純度を高めるまで構築されていくのだ。

かくて、鮮度の高い競技に観る者を釘付けにする。


大脳辺縁系が感受した刺激的情報が、瞬時に、間脳に位置する視床下部に伝達されるや、副腎髄質ホルモンが分泌される。


脳内での視床下部の位置。赤色で示す領域が視床下部(ウィキ)

視床下部が交感神経系に命じ、この副腎髄質ホルモンからアドレナリン(不安の除去)とノルアドレナリン(恐怖の除去)が分泌される。

また、副腎皮質刺激ホルモンも分泌され、コルチゾール(脳の海馬を萎縮させる)という「脳内ホルモン」=神経伝達物質に伝達され、血糖値を上げることで身体運動を活発にさせていく。

交感神経が振戦(しんせん・震えのこと)を起こし、消化機能を停止させ、膀胱を弛緩(しかん)し、心臓の心拍数を高め、血圧を上げ、瞳孔を開かせ、筋肉を刺激し、血糖値を上げることで身体運動を活発にさせていくのだ

感情の生理過程に収斂され、自律神経系(特に交感神経系)の活動によって生み出される現象は、人間の体内の本能的構造の所産である。

自律神経の基礎知識
この生理過程において、恐怖を感知したとき、人間は「逃走」を回避し、「闘争」に立ち向かうことで、自らを囲繞する「脅威的状況」を突破していくのである。

考えてみると、多くのアスリートにとって、競技そのものが恐怖=「脅威的状況」なのだ。

ここで、私は鮮明に想起する。競技そのものが、恐怖=「脅威的状況」に囲繞されたアスリートのことを。
高梨沙羅(ウィキ)
女子スキージャンプ選手・高梨沙羅(たかなしさら・
株式会社・クラレ/以下、敬称略)である。 

高梨沙羅は、シーズンごとの大会・スキージャンプ・ワールドカップでは勝利を重ねている一方で、オリンピックや、オリンピック以上に選手から重要視されていて、隔年開催の「世界選手権」(実力者が優勝するビッグイベント)といった大舞台(おおぶたい)で結果を出せないのだ


4位に終わった「ソチ五輪」
典型例を言えば、直前のワールドカップで圧倒的な強さを発揮し、金メダル候補の筆頭として臨んだ「ソチ五輪」女子ノーマルヒルで、首位のカリーナ・フォークト(ドイツ)に3位で肉薄しながら、2回目のジャンプで頓挫し、結局、金メダルとは縁遠い4位に終わってしまった。

この「ソチ五輪」から、向かい風ならポイントを引き、追い風だと加算する「ウインドファクター」距離が出にくい追い風の不利の解消を失くすため)が導入されていたが、高梨のジャンプは「ウインドファクター」の加算点を考慮しても、メダルに届かない失敗ジャンプった。


明らかに、高梨の「メンタル面の脆弱さ」が露わになった失敗ジャンプの現実は推して知るべしという印象を拭(ぬぐ)えなかった。

4位に終わった「ソチ五輪」
そのことは、「ソチ五輪」後の、打って変わったような高梨のワールドカップでの連覇記録の破竹(はちく)の勢いが、雄弁に物語っていると言える。

ワールドカップ通算53勝・歴代最多タイ記録保持者という、目が眩(くら)むような「単独行」の輝きが、「平昌五輪」が待つ2018年のシーズンに入るや、自家薬籠中の物(じかやくろうちゅうのもの)であったはずのリレハンメルでのワールドカップでは3位に留まり、結局、国内での札幌大会での2位が最高成績った。

マーレン・ルンビ・2013年(ウィキ)
因みに、「平昌五輪」で、女子個人ノーマルヒルを優勝したのは、マーレン・ルンビ(ノルウェー)、銀メダルはカタリナ・アルトハウス(ドイツ)。

共に、一気に力を付けてきた欧州勢ある。

そんな強敵揃いの中での、「平昌五輪「」の銅メダル。

ノルディックスキー・ジャンプ女子個人ノーマルヒルで銅メダルに輝いた高梨沙羅

高梨沙羅はインタビューの中で、悔しさを吐露しながら、喜びを隠し切れなかった。

今回もまた、「ウインドファクター」に翻弄され、刻々と天候が変わる苛酷な〈状況〉下で、「五輪」という魔物が棲む「戦場」が醸し出す、一種異様な空気に搦(から)め捕られつつ、必死に踠(もが)きながら、どうしても手に入れなければならない「特別の価値」を奪い取ったからである。

高梨沙羅にとって、「メダル」という、直径数センチ大の円形の延べ板は、珠玉なる「特別の価値」以外の何ものでもなかった。

色は何でも良かった。

「銅メダル如き」と言って、当て擦(こす)る者がいても、そんな雑音などどうでも良かった。

「ソチ五輪」の雪辱を果たすこと。

それだけった。


「平昌五輪」の高梨沙羅
雪辱を果たした風景の先に、もっと価値のある特別の、言葉にならないような、体全体で感じる微妙な感覚・「フェルトセンス」のような、未知なるゾーンが待っているかも知れない。

う、信じることで充分だったのではないか。

リアルに言えば、高梨沙羅の「平昌五輪の意味は、それだけったのだろう。

そんな彼女に、私は最大級の賛辞を惜しまない。

伊藤有希と抱き合う高梨沙羅
2回目の安定的なジャンプの着地後、高梨は笑顔でガッツポーズし、チームメートの伊藤有希(ゆうき・女子スキージャンプ選手)と抱き合ったが、このパフォーマンスの中に、彼女の「平昌五輪」の本質が率直に表現されているように思える。

「目標にしていた金メダルには届かなかったんですが、最後の最後に渾身(こんしん)の、ここにきて一番いいジャンプが飛べた。なにより日本のチームのみんなが下で待っていてくれたのがすごく嬉しくて。結果的には、金メダルをとることはできなかったですけど、自分の中でも記憶に残る、そして競技人生の糧になる、すごく貴重の経験をさせていただいたと思います。(略)やはりまだ自分は金メダルをとる器ではないとわかりました」(「ハフポスト日本版ニュース 2018年2月13日」)

このインタビューの中で重要なのは「自分は金メダルをとる器ではないとわかりました」という発言である。

「まだ自分は金メダルをとる器ではない」
他人に言われるまでもなく、高梨沙羅は、「メタ認知能力」(自己を客観的に把握する能力)の欠如である「対自己無知」(自分が分らない)ではない。

だから、「平昌五輪」が「競技人生の糧」になる。

「今・ここ」から再出発する。

そんな覚悟を言語化したのである。

前述したように、恐怖を感知したとき、人間は「逃走」を回避し、「闘争」に立ち向かう。

そこで、自らを囲繞する「脅威的状況」を突破していく。

多くのアスリートにとって、競技そのものが恐怖==「脅威的状況」なのである。

思えば、高梨沙羅には、「五輪」という魔物が棲む「戦場」そのものが、恐怖=「脅威的状況」だった。

「五輪」という魔物
彼女は「ソチ五輪」で、「競争的偶発性」という近代スポーツの宿命に嵌ってしまったである。

の後、周囲の揶揄(やゆ)に抗して、彼女は化粧を意識するようになった。

「キレイにしていることで、自信になるというか(中略)化粧をすることで、こう、スイッチが入るというか」

これは、「報道ステーション」(テレビ朝日系)での高梨沙羅の言葉。

私には、彼女の気持ちが透けて見えるようだ。

他者への関心を前提とする化粧行動を通して、自分の印象を適正に管理し、充分に視覚な自己表現を果たしていく。

「化粧をすることで、スイッチ・オンする」
その化粧行動によって、高梨が手に入れる第一義的な価値は自尊感情の強化である。

この高梨沙羅自己表現の本質は、非攻撃的で、適度な自己主張としての「アサーション」であると言っていい。

「化粧をすることで、スイッチ・オンする」


化粧行動が、自らを変えていくのだ

差別的なセクハラ行為の含みを持つ化粧行動それ自身が、様々な他者の視線を浴びることになるので、承認欲求を満たす一方で、鋭角的な視線の恐怖に馴致(じゅんち)することで免疫耐性を強化していく。

化粧行動の自立性
そして、それ以上に、化粧行動の自立性が、「スイッチが入る」精神状態を作り出す

この精神状態が自尊感情の強化に繋がるのだ

だから、高梨沙羅の化粧行動が、視覚的な自己表現をも超え、適度な自己主張としての「アサーション」と化す

「競争的偶発性」の純度を高めるまで構築されていく近代スポーツの宿命は、決して勝敗に拘泥(こうでい)しない、ジョギングのような「レクリエーションスポーツ」や、「自由自在」の「遊び」にまで下降せず、多くの場合、競技そのものが「恐怖超え」を必然化してしまっているである


高梨沙羅の「恐怖超え」
高梨沙羅の自我が、「ソチ五輪」から「平昌五輪」までの4年間に、自らが背負った負荷を昇華するには、この「恐怖超え」を突き抜けていかねばならなかった。

それが、高梨沙羅の「平昌五輪の全てだったのではないか。

私には、そう思われてならないである





2  「チームパシュート」こそ、鮮度の高い近代スポーツの結晶点である





繰り返しになるが、観る者の好奇心に睦み合うように作られ、そこで作られた新種のスポーツは、時代の鮮度が削(そ)がれることがないように、万全のルールを作り、観る者と一体化する競技を構築していく。

「競争的偶発性」の純度を高めるまで構築されていくのだ。

かくて、鮮度の高い競技に観る者を釘付けにする。

このとき、競技者観る者も、活性化したホルモン分泌によって「ハラハラドキドキ」という精神状態を作り出していくのだ

競技を介して、競技者と観る者が一体化するのである。


これが、近代スポーツ宿命である。

2012年ロンドンオリンピックにおける女子チームパシュート(ウィキ)
観る者の好奇心に睦み合うように作られた新種の近代スポーツの中に、自転車競技にルーツを持つ、抜きん出て面白い、スピードスケート系の「チームパシュート」という競技がある。

本来、個人競技であるスピードスケートに導入された初の団体競技で、2000年頃から始まり、「トリノ五輪」(2006年)から正式採用された歴史の浅い競技である。

この競技が面白いのジャンプ競技のように、近代スポーツの魅力の一つである「競争的偶発性」の純度の高さが保証されているばかりか、それ以上に、「戦略・戦術」が重要な要素になっているという点にある。

個人競技してのスピードスケートは、基本的に「強い者が勝つ」という印象を拭(ぬぐ)えないが、「チームパシュート」の場合、「団体追い抜き競技」と呼称されているように、必ずしも、常に好タイムで走り切るスピードスケーターの、その本来的な能力の高さで勝負が決まは限らないのである。

女子チームパシュートのスタート(ウィキ)
そこに、この鮮度の高い新種の競技の魅力がある。

「平昌五輪」で金メダルを獲った、日本女子の「チームパシュート」の場合、1チーム3名編成のスケーターが、1試合2チームという競技原則の中で、6周(2400m)でタイムを競うスポーツ。

この「団体追い抜き競技の特徴は、競技する2チームが横一線に並んで同時スタートをするのではなく、各チームがコースの反対側に分れて、同じ方向にスタートをするという方式をとっていること。

また、Pursuit(追撃)という英語で判然とするように、タイムを競う「団体追い抜き競技」は、3人目のシューズのブレード(スケートの靴に付ける金属の刃)の先端がゴールした時点がタイムとして記録されるので、横一線に並んでのゴールになりやすい。

従って、脱落者を出さないため、3人がいかに速くゴールするかという点がポイントになる。

競技がスタートするや、名の選手が縦一列に隊列を組むが、平均時速が50キロ近いので、先頭の選手が50キロの風圧を受け続けることになる。

日本女子チームは足運びから腕の振り方まで息ピッタリ
当然、先頭の選手の疲労が激しいため、先頭が後方の選手にコースを開けて譲り、追い抜かれて隊列の後方に付き、選手間での疲労の蓄積を分散するという合理的な戦術が用いられる。

ここに、「チームパシュート」の最大の魅力がある。

最も興味深いのは、コーナーで先頭を入れ替わりながら滑走しつつ、先頭の選手を風よけにしながら後方の選手の体力を温存するが、3名の選手が、最低でも1周は先頭を走行しなくてはならないというルールがあること。

だから、個人の力量が抜きん出ていても、その個人の力量が、「チーム」としての結集力に収斂されているか否か、それが勝敗の分岐点になる。

まさに、この「チームパシュート」こそ、トライ・アンド・エラー(試行錯誤)を重ねながら高度化した、鮮度の高い近代スポーツの結晶点であると言える。






3  「平昌五輪」 ―― 近代スポーツの宿命と結晶点





平昌五輪の「チームパシュート」の決勝で、日本が強豪・オランダを下して金メダルを獲得した余韻がまだ残っているが、動画で何度観ても、日本女子の「チーム」としての結集力に感嘆する。  

私が平昌五輪で最も印象に残り、絶賛したい競技だった。


400メートルのリンクを、3人で隊列を組み、6周する難しいレースを、日本は2分53秒89の五輪新記録で制したのである。

個々の力では、スケート王国・オランダのスケーターより劣っているにも拘らず、「空気抵抗」という最大の敵を巧みに利用し、それまで徹底的に合理的・科学的な鍛錬を重ねてきた、日本女子チームの「戦略・戦術」が見事に奏功し、完璧なチームワークで圧勝した。

これは、単なる「競争的偶発性」の勝利ではない。

日本女子チームが、年間300日を超える合宿によって、「空気抵抗」を軽減する鍛錬を重ねてきた結果である。


「一糸乱れぬ隊列」=「黄金のワンライン」

日本女子チーム
これを作り出すための鍛錬である。

人工的に風を作る風洞内で風速や圧力の分布を計測理想の隊列・先頭選手交代の効率を割り出す実験・「風洞(ふうどう)実験」を繰り返してきたことが決定的に大きい。

更に、選手の心拍数のデータを重視し、食事・栄養面の管理に及ぶ指導を図るなど、近代スポーツに総合的且つ、科学的トレーニングを積極的に導入したのだ。

徹底的な風洞実験を経て開発されたWARP TT(ロードバイク)

これは、近代スポーツに過剰なまでの精神主義を強引に組み込むだけの、「メンタル面」を強化する鍛錬と完全に切れている。

スピードスケートナショナルチーム(NT)の中長距離競技を率いて、殆ど完璧に成就したのは、オランダのコーチの力量に拠るところが大きかった。

件のコーチの名は、2017年段階で38歳のヨハン・デビット。

スピードスケートのアスリートだったが、記録を残すことのない無名の選手だった。

選手に向かないが、指導力はあった。

最新科学に基づき、選手の能力をマキシマムに高める指導を徹底する。


ヨハン・デビット
我が国のアスリートが、ヨハン・デビットの徹底的な指導を主体的に受け止め、実践していったのは、メダルがゼロに終わった「2014年ソチ五輪」の敗北で、スピードスケート競技のメダルに飢えていたからである。

ヨハン・デビットの徹底的な指導の成果が、個の力量頼る強豪のオランダの、強力女子チームに逆転勝ちし、金メダル獲得によって検証されるに至る。  

残念ながら、個の力量に頼るオランダの女子チームは、完成形の「チーム」を構築し得なかったということだ。

高木美帆
但し、年間300日を超える「風洞実験」が金メダル獲得に結びついたと言っても、中長距離走(500mから3000mまで)を熟(こな)すオールラウンダーのエース・スケーター・高木美帆(みほ)の存在なしに、日本女子チームの成功は覚束(おぼつか)なかった。

3人の息がピタリと揃った「黄金のワンライン」 ―― 高木美帆を中心にした日本女子チームの圧巻の滑り。

このフレーズに収斂される、平昌五輪の「チームパシュート」の優勝だった。

500メートルの銀、1000メートルの銅に象徴されるように、先頭からオールラウンダーのエース・高木美帆、決勝の序盤を比較的、時間帯を長くする滑りでオランダをリードした後、ヨハン・デビットの「戦略・戦術」通り、高木美帆が余力を残すため後ろに下がり、姉の高木菜那(なな)と佐藤綾乃(あやの)が粘り、中盤で逆転を許すものの、ラストで再び、余力を残した高木美帆が先頭で牽引(けんいん)して再逆転し、一気にゴールを走り抜けていく。  

日本が金メダル スピードスケート女子チームパシュート
紛れもなく、先頭の交代時のタイムロスを、限りなく少なくする滑り方などを研究し、磨き抜かれた鍛錬の成果が出た出色のレースだった

だからと言って、日本女子の「チームパシュート」は、オランダとの決勝に辿り着く行程が、常に万全だったと評価し得る訳ではない。

中でも、結果的には勝ったが、中国との準々決勝、後ろからの「待って」という声に反応し、フライングと勘違いした先頭の高木美帆がスタート直後、一瞬、体を起こし、足を止めてしまったレース冷や汗ものだった。

スターターの「レディー」から号令までが長いので、スタートの絶妙なタイミングを逸してしまったのである。

「間が長くて、タイミングが難しい」

レース後の選手の言葉ある。

号令までの長さは、テレビ視聴者にも分かるほどで、フライング起こりやすい印象を拭えない。

中国との準々決勝でのミス
ワールドカップで連勝中であっても、「冬季五輪」となると空気が違う。

何が起こるか、予想の範疇に収まらないのだ。

「競争的偶発性」の「偶発性」が、「五輪」のような大きな大会で発現するからこそ、瞬時でも集中力を切らすわけにはいかないのである。

その辺りが近代スポーツの面白さであるが、だからこそ、逆に、過緊張のセルフコントロール能力が求められるとも言える。

現に、中国との準々決勝では、中盤までタイムが遅れていたが、最後は実力の差が出て、一気に抜き返した。

しかし、相手がスケート王国・オランダだったら、得意の後半の逆転劇が頓挫(とんざ)した可能性が高い。

こに、「五輪」の怖さがある。

ジャンプを失敗したネイサン・チェン
この例は、優勝候補の一人・フィギュアスケート男子の米国代表・ネイサン・チェンが、団体戦ばかりか、個人戦でも、ショートプログラム(SP)の全てのジャンプを失敗し、17位発進という惨敗によって、メダルが絶望的になった痛切なエピソードを想起すれば充分だろう。

―― ここで、「4人目」の選手・菊池彩花(あやか)の存在価値について書き添えておきたい。

日本女子の「チームパシュート」は、高木美帆、高木菜那、佐藤綾乃、菊池彩花の4人チームで臨んでいた。

前3者が中心だが、最年長で170cm近い身長の菊池彩花は、絶対負けられない準決勝に出場し、その身長の高さが「壁」として重宝され、高木姉妹の完璧な風よけになった。

準決勝の対戦相手は、オランダと並ぶ強豪のカナダ。

菊池彩花に期待されていたのは、50キロの風圧を受け続け、自らが疲弊し切ることで、高木姉妹の脚力の負担を軽くすることである。

左から菊池彩花、高木美帆、高木菜那・準決勝のカナダ戦
最も速い高木美帆の脚力を生かすため、誰かが「犠牲」になる。

これが、「チームパシュート」の最大の魅力であり、「団体追い抜き」という競技の本質的価値である。

菊池彩花の存在の決定的価値は、まさに、ここにあった。

その準決勝で快心の滑りを見せた菊池彩花にとって、「平昌五輪」の意味は、ミスが許されないオランダとの決戦において、疲労を抜いた高木姉妹を万全の状態で送り出すことである。

だから、菊池彩花は、単に4人目の選手ではない。

菊池彩花
予備の選手でもない。

「チームパシュート」の不可欠で、絶対的に要請される選手なのだ。

こういう選手が普通にいて、普通にチームに溶け込み、いつものようにレースに参加する。

そして、勝ち切って優勝する。

左から菊池彩花、佐藤綾乃、高木美帆、高木菜那
金メダルを得た喜びを、皆と共有するのだ。

日本女子「チームパシュート」本来的な力道感、「競争的偶発性」の純度が、中国との準々決勝でのミスによって、一瞬、負荷を負ったが、ここに至るまで蓄積した、「黄金のワンライン」に収斂される総合的且つ、科学的トレーニングの鍛錬の成果が実を結び、プレッシャーの片鱗(へんりん)も拾えないような落ち着いたレース運びを完遂し、再構築する強さのうちに裏付けられたのである。

それは、ミスによって破綻してしまうレベルを超えていた。

―― この事実は、開催国・韓国女子のチームパシュート」信じ難い結束力の脆弱さと比較すれば、充分に検証できるだろう。

殆ど「チーム」が瓦解しているような韓国女子の「内紛」は、その後の7・8位決定戦まで尾を引き、惨憺(さんたん)たる様相を呈していた。

韓国女子パシュート
チームのノ・ソンヨンが隊列から遅れたことを、同チームのキム・ボルムとパク・チウが露骨な批判をしたことで、一切がダメになってしまったのだ。

元々、五輪前からチーム内の確執(かくしつ)が表面化していたと指摘されるが、そんな状態を野放しにしてきたスタッフ・選手の非主体的な行動様態に疑義を呈するばかりである。

3人又は4人で構成されるチームを組み、隊列を組んで速さを競う「団体追い抜き競技」・「チームパシュート」という、考え抜かれたルールを持つ競技から、万全の態勢で臨む「チーム」を構築する結集力が削(そ)がれてしまったら、個々のスピードスケーターを寄せ集めた小さな集団でしかないだろう。

「チームワークの崩壊は予想されたことだった」

朝鮮日報(日本語版)の記事である。

「一度も、一緒に練習しない」などという、伝えられている情報が事実なら、韓国女子の「チームパシュート」の自壊は、「約束された破綻」を上塗りするだけの現象だったと言う外にない。

キム・ボルムが涙の謝罪会見
韓国大統領府のウェブサイトには、キム・ボルムとパク・チウの代表資格剥奪を求める請願が寄せられ、50万人の賛同が集まったと報道されていたが、ただ絶句するのみである。

これは、韓国批判のブログとは無縁なので、エビデンス(根拠)の不明な言及を繋ぐのは止めておく。

私としては、「チームパシュート」の生命線が、「一糸乱れぬ隊列」=「黄金のワンライン」を完成形にするための鍛錬の累加にあると考えるので、その意味で、日本女子チームの優勝もまた、ほぼ、「約束された金メダル」であったと評価できる達成点だったと誇れるだろう

日本女子の「チームパシュート」の達成点は、「競争的偶発性」の純度の高さと、合理的・科学的なトレーニングをコアに据え、「戦略・戦術」が最も重要な要素になったことで、極めて鮮度の高い競技の訴求力を保証した。

まさに、「平昌五輪」は、近代スポーツの宿命と結晶点を表現する格好のステージになったのである。

【参考・引用資料】 「パシュートとは?ルールや見どころ解説!」

(2018年3月)



追記・【2018年3月10日に、「スピードスケート世界選手権」がアムステルダムで行われ、高木美帆が日本勢初の総合優勝を果たした。世界選手権で総合優勝6度に及ぶ、スケート王国・オランダの女王・イレイン・ブストを破り、遂に頂点に立った。快挙である】


2017年10月13日金曜日

菅野智之は日本球界で最強の投手である ―― 「10完投200イニング」を目標にする男の真骨頂


9回を投げ切り完封する菅野智之

1  不名誉な「負け運」を払拭した絶対的エースの一気の跳躍





巨人の絶対的エース・菅野智之は、今や日本球界でNO.1の投手である。

私は、勝手にそう思っている。

何もかも素晴らしい。

特に、2017年の成績は圧巻である。

2年連続3度目の栄冠に輝く最優秀防御率。

規定投球回数187 1/3イニングで、1・59という数字の凄みは、両リーグの投手との比較を考えれば了然とするだろう。


同チームで防御率2位のマイコラスが、投球回数188イニングの2.25(最優秀防御率のタイトルを獲得する際に必要な規定投球回数は、所属球団の試合数×1.0)で、14勝の成績は素晴らしいが、防御率3位の野村祐輔(広島)が投球回数1551/3イニングの2.78で9勝、防御率4位の今永昇太(横浜)が投球回数148イニングの2.98で11勝、そして、5位以下は全て防御率が3点台の成績だ。

マイコラス投手

次にパ・リーグ。

2013年に長期離脱した左肩の炎症の怪我を乗り越え、開幕投手を務めた2016年に初めて規定投球回数に達し、今年、本来の才能を炸裂させた菊池雄星(きくちゆうせい)のピッチングは文句なしに素晴らしい。

菊池雄星投手

球速への拘(こだわ)りがあるのか、スリークォーターから違反投球とされた二段モーション(注1)で投げる、切れ味鋭い150キロのストレートとスライダーで、8試合連続2桁奪三振でNPB記録を更新した則本昂大(のりもとたかひろ/楽天)と最多奪三振のタイトルを争うほどに、217の奪三振は図抜けている(則本が最後に逆転し、史上4人目の4年連続奪三振王のタイトルを奪取)。


則本昂大投手(ウィキ)

投球回数187 2/3イニングで、防御率1位の1.97も群を抜き、2.6434で防御率2位の千賀滉大(せんがこうだい/ソフトバンク)の、ぎりぎりの投球回数143イニング、更に、2.6438で同3位の東浜巨(ひがしはまなお/ソフトバンク)の投球回数160イニングを大きく離し、先発完投型の本格派投手に授与される最高の栄誉・沢村賞の候補になるのも頷(うなず)ける。

沢村栄治(ウィキ)
但し、この沢村賞に関しては、残念ながら、菊池雄星より一段レベルが上の菅野智之に及ばないだろう。

私個人の感懐を言えば、セ・リーグの全てのチームを抑えている菅野と比較して、肝心の優勝チーム・ソフトバンクから打たれっ放しで、8点台近い防御率の不甲斐なさは無視できないので、楽天とのファーストステージを勝ち上がり、ソフトバンクとのファイナルステージでリベンジできれば印象度がアップする程度であると思われる。

沢村賞に関して更に言えば、その選考基準が勝利数・勝率・奪三振・完投試合数など7項目ほどあるが、純粋に投手個人の能力である防御率と、先発完投型の本格派投手の証明となる投球回数の価値の高さを、私は重視している。

その意味で言えば、1・59という防御率の凄みは出色である。

とりわけ、今年は3月のWBCからフル回転し、ローテーションを最後まで守り切り、7月以降、12登板で10勝1敗で、防御率0・60という数字の凄みは決定的である。

どう転んでも、今年の沢村賞は菅野智之で決まりである。

侍ジャパン・菅野智之 台湾打線を4回無失点(2017年3月1日)

ここ数年、「得点援護率」(「援護率」)が極端に少なく、不名誉な「負け運」を引き摺っていた(注2)菅野は、2017年に「援護率」が3点台に乗ったことで、「自分が0点に抑えれば、負けることは100%ない」という心境を強いられていただけに、ようやく、字義通りの「絶対的エース」に落ち着くに至った。

巨人だけが20本塁打以上の打者が不在の中で、不名誉な「負け運」を払拭した絶対的エースの一気の跳躍。

1年間、ずっと見ていて、菅野智之の「一気の跳躍」は、不断に進化するアスリートの真骨頂が球史に刻まれたことを意味するだろう。



菊池雄星の二段モーション

(注1)ピッチング動作に移った時は「一連の動作」とされるから、投球を完結させねばならないということ。しかし、「一連の動作」についての国際化の定義が曖昧で、審判の主観とも言われ、他の投手にも適応される必要がある。


野村祐輔(ウィキ)

(注2)2016年の菅野智之の「援護率」は、セ・リーグ最下位の2.01で、セ・リーグ最上位で5.74の野村祐輔(広島)の半分以下だった。その結果、菅野は最優秀防御率ながら9勝6敗の成績に対し、野村は16勝3敗の成績になった。





2  自らのピッチングスタイルの完成形を目指す男





以下、私が菅野智之に強く惹かれる理由を書いていきたい。

その1。

その瞬間、投手が輝く奪三振の魅力に取り憑かれることなく、「打たせて取る」という、一見、地味なピッチングスタイルに拘(こだわ)っていること。

バットの芯を外し、下方に当てさせることで、低めに上手くコントロールする投球術に優れていることが必要条件になるが、当然ながら菅野は及第点である。

日本球界でNO.1の投手

これを、「グラウンドボールピッチャー」と言う。

内野ゴロを打たせることができる投手のことで、MLBでは球数を節約する投球が高く評価され、DL(故障者リスト)入りを防ぎ、ローテーションを守るために必須な球数制限の制約に拘泥(こうでい)するのは周知の事実。

だから、奪三振の魅力に取り憑かれ、不必要なまでに球数を増やしてしまう「剛速球投手」は、必ずしも歓迎されない。

また、「グラウンドボールピッチャー」と対極の「フライボールピッチャー」は、外野ゾーンまで飛ばされるミスの危険性が常にあり、MLBでは評価が低い。

その典型が井川慶で、MLB・ヤンキースで2勝しか残せなかった(防御率は2年にわたって、6.25と13.5)。


ヤンキース時代の井川慶投手

また、巨人のカミネロも同様で、抑えの失敗の危うさが常にある。

「グラウンドボールピッチャー」(2016年のゴロの割合は55.3%)と言われている菅野智之だが、ゲームの状況を分析する能力の高さで、150キロのワンシーム系のストレートを勝負球にして、本来的な力投派・速球派の片鱗(へんりん)を見せることが多々ある。

「ワンシームは親指にボールの縫い目がくるように固定し、親指で支えている。だから、しっかりとした軌道を描ける」

菅野自身の解説である。


菅野の魔球・ワンシーム

ストレートの進化によって、「グラウンドボールピッチャー」としての希有な能力を発揮するのだ。

それを証明するデータがある。

「2016年までの10年間で、満塁時に最も三振を奪った投手は」というテーマを指標にした調査であり、これは、ピンチを切り抜ける能力の高さ=「クラッチピッチャー」の重要な尺度となる。

田中将大(たなかまさひろ/ウィキ )
結論から言うと、ダルビッシュ有が1位で第2位が田中将大だが、彼らは今やバリバリの現役メジャーリーガーなので外すとすれば、日本球界のNO.1の「クラッチピッチャー」は菅野智之である。

その菅野が、2016年のシーズンまでに満塁の走者を背負った状態で対戦した打者の数は、プロ入り後、4年間で「64」。

その64回の満塁時の打席に対して、彼が奪った三振の数が「21」。

奪三振率にして「32.8%」という、抜きん出た数字こそ、ピンチに強い先発完投型の本格派右腕の証明である。

例えば、ノーアウト満塁の時、菅野はギアを上げ、打者を三振に取る。

そして、次打者を、抜群の制球力でゲッツーに取る。

或いは、俊足の打者なら三振に取る。

こういうピッチングができるので、常に失敗の危うさと切れている印象を与え、「フライボールピッチャー」というより、「グラウンドボールピッチャー」が醸し出す安定感を感じさせるのだろう。

菅野智之・指先の強化トレーニング
但し、この数字は、2017年の開幕前の指先の強化トレーニングによって、速球のキレに磨きがかかり、奪三振の数が一気に飛躍したと言われる時点での記録である。

2017年での絶対的エースの一気の跳躍は、この数字を超えていることが予想されるが、残念ながら、2017年の数字のデータを未だ把握し得ないので、これ以上、書き添えることができない。

プロ入り後、スリークォーターから最高球速156キロを記録したストレート系(フォーシーム・ツーシーム・ワンシーム)を軸に、三振が取れるスライダー、カットボール、カーブ、フォーク、シュート等の多彩な変化球を持つ菅野智之の強みは、これらの球種を抜群の制球力で操れる能力の高さにある。

何より、ここで注目したいのは、菅野のストレートのレベルアップである。


米国戦先発の菅野智之「HR打たれるならぶつける覚悟で」

これは、「世界野球WBSCプレミア12」で圧倒的な力の差を見せつけられた菅野が、ストレートの強化に重きを置き、そのために、「遠投」と「腕回りの強化」のトレーニングを徹底していく。

前述したように、このトレーニングによって、1年間で、ストレートの平均球速は2キロ上がり、空振り率も2倍になったことで、ストレート勝負が増していく。

このストレートをワンシーム(少し落ちるボール)で試したら、ゴロアウト率が86%に上昇し、菅野の強化トレーニングが実を結ぶのだ。

ワンシームによるゴロアウト率の上昇によって球数が減り、投球回数も増す。

去年のデータによれば、1イニング平均投球数が14.32になり、セ・リーグNO.1となる。

このストレートの進化で、切れ味鋭いスライダーが生きていくのである。


菅野智之・ゴロアウトとスライダーによる奪三振

更に言い添えたいのは、菅野のストレートの回転数の多さである。

ボールにバックスピンをかけて投げれば、バッターから見れば、ボールが浮き上がってくるので、球速表示よりも速く感じる。

ストレートの回転数が多いと、この技術が有効になる。

これは、飛行機の翼によって機体を押し上げていく揚力(浮揚力)が発生する物理的メカニズムと同じであり、この物理現象を応用すればボールが浮き、伸びた球を投げられるのである。

ダルビッシュがバックスピンを意識した投げ方を練習している様子は動画で確認できるが、菅野もまた同様であると思われる。


ダルビッシュのバックスピン

ダルビッシュのストレートの回転数が2485回という情報をネットで知ったが、WBCの準決勝・米国戦での菅野のストレートの回転数は2513回と言われていて(カーブの平均は2859)、この数字はメジャーの平均値(2263回転)より上回っていた。

如何に、菅野のボールが打ちにくいかという事実を再確認させられる。

菅野の指先の感覚が、他のどの投手よりも優れていることがよく分る。

本人の話によると、こういうことらしい。


前田健太投手のスライダーの握り

オールスター戦の際に、前田健太からスライダーの握りを聞き、その握りを変えたら前腕の張りが強く出たことで、そのスライダーの握りに耐えられるように指の力を鍛えることをルーティンにして、3キロのゴムボールを上から掴んで持ち上げ、握って離して、握って離してというトレーニングを続けてきたと言う。

ゲームで、リリース時に指の力がボールに伝わり、「指にかかったボール」がいくようになったとも語る菅野智之が、そのトレーニングをルーティンにしたのは言うまでもない。

菅野の凄みを再確認するエピソードは、これで終わらない。

中5日で時間が空いた時のブルペン入りした際についての、菅野のインタビューの反応を耳にして、また驚かされた。

「プロの先発投手の場合は連戦が少なく、中5~6日と時間も空きますが、そこに対して、菅野投手自身の工夫はありますか?」

この発問に対して、菅野は以下のように明瞭に答えた。


読売ジャイアンツ 菅野智之投手「心技体ではなく、体心技の考え方

「プロになってからは、基本的に中6日の場合は、登板2日前にブルペンに入ります。中5日の場合は、ブルペンには入りません。皆、『たった1日でそんなに変わるの?』と思うかも知れませんが、その積み重ねがシーズン後半に響いてくるのです。  

中5日だからといってブルペンに無理して入って、『心』はいいかもしれないけど、それは投げたっていう自己満足になってしまいがちです。中5日だからこそ、まず、体を万全な状態に持っていく。技術の部分は登板間隔が短いからこそ、前回の感覚を覚えていると思います。  

逆にローテーションを任されるほどのピッチャーが、『ブルペン入らなきゃ不安』って言っているようじゃダメだと思います。だから、僕はもう、中5日の登板日の時は絶対にブルペンに入りません」

さすが菅野という感じだが、プロのアスリートの進化の片鱗が窺えるエピソードだった。

―― ここで「グラウンドボールピッチャー」にテーマを戻すが、MLB通を自称する人で、ロイ・ハラデイ(2013年に現役引退)の名を知らない人はいないだろう。

ロイ・ハラデイ(ウィキ)
MLB・投手最高の栄誉”サイ・ヤング賞 に2度輝き、完全試合・ノーヒットノーランをも達成し、典型的な「グラウンドボールピッチャー」として、その制球力抜群の効率的投法はMLB・NO.1投手としての評価が高く、デレク・ジーターは「球界最高のピッチャー」と評し、松井秀喜はハラデイのシンキング・ファストボール(沈む速球)を打ちあぐみ、「最も打ちにくい投手」と評した。

浪人中(2012年)の菅野智之が、このMLBのテレビ中継に没頭していて、抜群の制球力から「精密機械」と称され、「投手にとって一番過大評価されている記録は奪三振であり、27個のアウトを27球で取るのがベスト」という持論を持つグレッグ・マダックス(現・投手コーチ)と共に、このロイ・ハラデイの投球術を見て制球力のスキルアップを目指す練習を繋いできたというエピソードがある。

彼が力投派・速球派でありながら、マダックスやハラデイのような「グラウンドボールピッチャー」の理想形を構築しようとしている思いが、ひしと伝わってくる。

コントロールに拘泥する菅野智之への高い評価は、既に、新人時代でも高い評価を受けていた。


アンダースローの大投手・山田久志

以下、通算284勝のアンダースローの大投手で、中日監督も務めた山田久志(やまだひさし)のコメント。

「最も評価したいのがコントロールです。アバウトにコースに狙うのではなく、キャッチャーの構えたところにピンポイントで投げ込んでくる。ルーキーとは思えないコントロールの良さですよ。

(略)150キロを超すストレートがあるにも関わらず、それに頼ることはない。スライダー、カーブを中心に変化球の使い方もうまい。マウンドでは常に冷静で、自分の持っているすべての球種を使ってバッターを抑えている。本当のピッチングを知っている投手です」(「今や巨人のエース! 評論家7人の『菅野智之』論」より)

「今や巨人のエース! 評論家7人の『菅野智之』論」より

思うに、甥の菅野智之に力投派・速球派を求める、「偉大な伯父・原辰徳」の進言にも拘わらず、見た目が格好いい奪三振ではなく、「27個のアウトを27球で取るのがベスト」と考えるマダックスやハラデイを尊敬し、自らのピッチングスタイルの完成形を目指す菅野の言動に深い感銘を受ける。

それでも、得点圏に走者を背負った時には一気にギアを上げ、ストレートで強打者を三振に取る。



その結果、2016年には、菅野が最も拘る最優秀防御率と共に、最多奪三振のタイトルをも手に入れた。

だから、私は菅野智之に強く惹かれるのだ。





3  自己管理能力の凄み ―― 驚嘆に値するプロ意識の高さ





私が菅野智之に強く惹かれる理由・その2。

自己管理能力が極めて高く、「リスクマネジメント」(ほぼ、危機管理能力に近い概念)をも包括したプロフェッショナル意識が抜きん出ていること。

自分自身で健康を管理するという意味で言えば、「セルフメディケーション」(健康の自己管理)の能力も半端ではない。

独学で睡眠学を研究するアスリートが、どこにいるだろうか。

副交感神経を高めて眠りの質を良くするため、自宅で「温冷交代浴」を徹底する。

自律神経には、緊張・ストレス状態の「交感神経系」(血圧亢進=闘争か逃走かという恐怖への反応である「闘争逃走反応」に関与)と、それと真逆で、リラックス状態の「副交感神経系」(血圧安定=食欲旺盛)があり、後者の機能を高めることは極めて重要である。


温冷交代浴


「副交感神経系」を高めることで入眠状態に入りやすく、菅野智之は、この状態を確保するため交代浴を徹底すると言う。

ここで言う交代浴とは、温かいお湯と冷たい水に交互に入浴することで、血行を促進する自然治癒法である。

詳細を書けば、まず、温かいお湯の浴槽の横にミニプールを膨らませて2キロの氷を5、6袋入れて冷やす。

そして、10分⇒5分⇒10分⇒5分という風に、ほぼ一時間を要して、「温冷交代浴」を繰り返していく。

体温を低下させてから寝ると効果があるという睡眠学の基礎に従って、最後は水風呂で終わるのだ。

これが、入浴が促す自律神経への刺激と血管の伸縮作用によって、血行促進を利用する「温冷交代浴」の本質である。


自律神経(交感神経と副交感神経)の働きと役割

血行が良くなることで、疲労原因となる乳酸や、体に蓄積した疲労物質を素早く取り除くので、「副交感神経系」の機能が高まるのだ。

水風呂で終わる「温冷交代浴」の結果、毛穴が閉じて発汗しにくくなる。

また、温浴で温まった体熱が逃げることなく体内に留まるため、身体それ自身が丸ごと保温されるのである

まさに「温冷交代浴」は、人間の自然治癒力を最大限に生かす方法であると言える。


イメージ画像

風呂上がりにストレッチを欠かさず、筋肉のダメージを防ぐため、マッサージで他者の手を借りない菅野智之流の「温冷交代浴」こそ、前述した「セルフメディケーション」の、舌を巻くほどに最も効果的な実践例だった。

そればかりではない。

菅野は、寝る姿勢にも拘る。

疲労回復には横向きが良いと学ぶが、菅野本格派右腕なので、右肩に負担がかからないように、必ず左側が下になる。

本人曰く、「首を寝違えないように」とのこと。

だから、絶対にうつ伏せでは寝ない。

入眠の弊害になる物音を遮断するため、テレビをつけ、オフタイマーを30分に設定して目を閉じる。  

彼は言う。

「シーズン中は、大体、皆、同じような練習になる。差がつくとしたら家での生活だと思うんです。それでも、技術が伴わないことがあるのが野球の難しいところなんですけどね。後悔はしたくないですから」 

正直、このプロ意識の高さに驚かされる。

いつも書いていることだが、「日常性」とは、その存在なしに成立し得ない、衣食住という人間の生存と社会の恒常的な安定の維持をベースにする生活過程である。

従って、「日常性」は、その恒常的秩序の故に、それを保守しようとする傾向を持つ。  

「日常性」のこの傾向によって、そこに一定のサイクルが生まれる。  

この「日常性のサイクル」は、「反復」「継続」「馴致」「安定」という循環を持つというのが、私の定義。  

しかし実際のところ、「日常性のサイクル」は、常にこのように推移しないのだ。  「安定」の確保が、絶対的に保証されていないからである。
 

ショートカッツ」より

「安定」に向かう「日常性のサイクル」が、「非日常」という厄介な時間のゾーンに搦(から)め捕られるリスクを宿命的に負っているからだ。(以上、人生論的映画評論・「ショートカッツ」より)

「日常性のサイクル」の「安定」を確保し得たであろう菅野智之にとって、限りなく、その状態を継続することが、「思わぬ身体的トラブル=怪我・体調不良」という、「非日常」の厄介な時間のゾーンに搦(から)め捕られない最も有効な手立てであるだろう。

「差がつくとしたら、家での生活だと思うんです」

この言葉は最高にいい。

高度なプロ意識そのものの、完璧な表現であるからだ。

彼の圧倒的な投球の源泉が、そこにある。

「史上最弱巨人の救世主、菅野智之の『魔球』が打てない理由」より





4  アスリートの基本は、「心⇒技⇒体」ではなく「体⇒心⇒技」である。





道上伯(みちがみはく)という男がいる。

道上伯
世界に柔道を広め、東京オリンピック(1964年)の無差別級で、日本代表の神永昭夫を袈裟固(けさがため)一本で下し、金メダルを獲得したオランダの英雄・アントン・ヘーシンクを育て上げた、生涯無敗の柔道家である。

その道上伯が、今では知らない人がいない「心・技・体」という言葉を世に残したと言われているが、真偽のほどは定かではない。

「(柔道の)最終目的は心技体の錬成であり、それによって立派な人間になることである」

1953年に来日したフランス柔道連盟会長に、道上伯は、このように答えたと言われる。

ただ、ここで言われる「心・技・体」という概念が、本来、柔道家に必須な「人格性」のバランスを意味するにも拘らず、日本人の多くが、「心⇒技⇒体」という順位をつけ、それを重要視する文化がユータナジー(安楽死)していない認識を前提に考えてみたい。

アントン・ヘーシンク(ウィキ)
だから、ここでは、「柔道」・「武道」・「剣道」・「相撲道」など、日本人がごく普通に理解する、「心⇒技⇒体」という、スポーツ文化の「高潔」なるエッセンスをベースに考えると興味深い。

なぜなら、この「心⇒技⇒体」というスポーツ文化の順位付けに、異論を唱えるアスリートがいるから

言うまでもなく、そのアスリートの名は菅野智之。

彼は言う。

「野球選手として求められるものは、メンタル・技術・コンディショニングとありますが、全部を求めてしまうと僕はダメだと考えています。よく『心・技・体』と言われますが、僕が考える優先順位は『体・心・技』だと考えています。自分が一番大事にしているのは、コンディショニング(体)。技術は一番最後」

更に、高校球児へのアドバイスを送る

体が良い状態であれば、メンタル(心)は大丈夫だと思えますし、技術は正直、キャンプ中からやってきたものがあるから、そこは経験で補ってもいける。ただ、それはプロの世界だから言えることであって、高校生はやっぱり投げないと不安だと思います。

)高校生向けの話ではないかもしれませんが、それでも、メンタル・技術・コンディショニングの全部は追い求めてほしくはないですね。高校生だからこそ、『体』(コンディショニング)の部分はしっかりと作り上げていってほしいです。


読売ジャイアンツ 菅野智之投手/「心技体ではなく、体心技の考え方」

野球をやめても、食事・睡眠・入浴というのは、日常生活において誰でもやるわけじゃないですか。だから、あまり頭でっかちになるのも良くないけど、最低限の知識は持っておいた方が良いと思います。僕は今、振り返ってみて、高校生の時に、もっと遠投の意識を持っておけばよかったなとか思いますからね。投手は野手と違って、やれることは限られているので、自分で考えながら、自分なりの調整法を考えていってほしいですね」

以上、菅野智之「体⇒心⇒技」論は極めて明快で、説得力を持つ。


生涯無敗の柔道家・道上伯

アスリートは「精神主義」一点論であってはならない、と彼は言っているの

これは、「心⇒技⇒体」というスポーツ文化の順位付けへの反駁である。

思い切り勘ぐって言えば、「精神主義」を高校球児に押し付けるスポーツ文化に異を唱えているようにみえる。

自分で考えながら、自分なりの調整法を考えていってほしい」というアドバイスを送る菅野智之は、怪我によってポストシーズンでの戦線離脱という苦い経験を踏まえてなのか、自らの経験から学びつつ、思考しながら辿り着いた経験譚を平易に説く。


イメージ画像・甲子園の土を集める高校球児(ウィキ)

アスリートの個人差を無視し、肝心の「体」が悲鳴を上げているにも拘らず、徹底的な練習漬けによってのみ「心」が鍛えられるという、ある種の「人格性」重視の「野球道」が、なお野球界を牛耳っている風潮への、気持ち良いほどの異論であると解釈したいが、これはどこまでも私の主観に過ぎない

「精神主義」より、「万全な体調」でゲームに臨め。

「万全な体調」が「負けない精神」を作る。

そういうことなのだろう。

全く異論がない。


菅野智之の進化の根柢には「体⇒心⇒技」の実践がある

なぜなら、「万全な体調」が「負けない精神」を作るという菅野智之のメッセージが、「中5日だからといってブルペンに無理して入って、『心』はいいかもしれないけど、それは投げたっていう自己満足になってしまいがちです」と言い切った印象深い言説のうちに凝縮されているからである。





5  菅野智之は日本球界で最強の投手である ―― 「10完投200イニング」を目標にする男の真骨頂





なぜ、菅野の球が打ちにくいのか。

ここに、一つの答えがある。

れは、投手・菅野が左足を踏み出したときには、もう、投手の上半身が打者に正対し、ボールを持つ右手が顔の前に出ているからである

菅野の左足(ステップ足)の踏み出しと、右腕の振りが殆ど同時なのだ。  


投球フォームの変化

即ち、左足をゆっくり下ろし、グラウンドに接するぎりぎりの辺りまでは右手は後ろにあるが、左足が着地する瞬時に上体を反転し、足を着くや否や、右手を前に振り出していく。

この左足と右手の誤差が少ないほど、打者は打ちにくい。

上体を高い位置から投げると、体と腕が前に倒れるために体全体に縦の動きが生まれる。

右足が前に大きく出るのは、それだけの勢いを生んでいる証拠である
 

体を前方に送り出して左足でストップさせて、腕を回転させるという投げ方に変化

打者にとって、投げ下ろされたボールが、突然、目の前に現れるような感覚があるので、打者が打ちにくくなるのは必至となる。

ゆっくり左足を上げ、真っ直ぐ(まっすぐ)な姿勢を保持し、しっかりと右足に乗ってから重心を移動する。

ゆったりとした仕種に見えるが、次の瞬間、急にボールが飛び出してくる。  

だから、スピードガンの計測以上に、菅野のボールは速く、且つ、鋭く感じるはずである

まして、そのボールが鋭く変化したら、打者は腰砕けになって手に負えないだろう。

史上初のトリプルスリー2年連続達成者である、ヤクルトの若き主砲・山田哲人を、切れのあるスライダーで空振り三振させたシーンこそ、ストレートを進化させた結晶だったと思われる


山田哲人(ウィキ)

ボールを速く見せる効果を持つ、左足を踏み出してから球が離れる速さ ―― これが、左足を踏み出したとき、右腕を後ろに残し、ためを作って、そこから勢いよく投げ下ろすという球界の常識を覆す、MLB流の菅野の投法である



菅野が走者を置いた場面でギアを上げる時、投げた後、左足をひっかくように後ろに引き、勢いをつけ、前へ前へ投げようとする動作は、他の投手にはできないと言われる超絶的投法だ。

「左足を引くことによって、右肩が前に出る。加速する。より、ボールに力が伝わりやすいんじゃないか。球も強くなるし、面白いように空振りが取れる感じもあった」  

菅野の言葉である

投げ終わった時に、左足を引くキックバック動作。


キックバック動作によって右腕が前に出る

左足をピョンと小さく跳ねるようにして後ろに動かしていく。

小さなエネルギーで体を加速させることができるので、効率の良い体の使い方になる。

更に、この投法は力をコントロールするメリットがあり、100%で投げなくても、今までと同じような球速が出せるようになるということ。



これによって、投球術も変化する。

「良い意味で手を抜く。打たれることを恐れない。今は50%もあるし、80%もあるという感覚。自分の中で割り切りができているからこそ、そういう場面になったらギアを上げられる。(略)今までは100%で投げていたから120%は出せなかった。50%、80%があるからこそ、120%まで上げられる」

これも菅野の言葉。

一切は、侍ジャパンのエースを任された、WBCで生まれた投球フォームの変化だった。

だから今や、得点圏にランナーを背負ったピンチの場面で、一気にギアを上げ、被打率は1割台になる。



「気持ちが入っているなと感じましたし、受けていても、これはスイッチが入ったなというのがボールで伝わってくるんで」

これは、菅野の「専属」的な正捕手・小林誠司の言葉。

この勝負強さこそ、「10完投200イニング」を目標にする菅野智之の真骨頂である



それこそが、菅野智之の進化のコアにあるメンタリティであると言えるのだ。

―― 本稿の最後に、菅野智之の凄みを検証し得るデータを書き添えておきたい。

現在、日本球界において公式記録となっていないが、投手の成績評価項目の一つに、「WHIP」がある。

これは、1投球回あたり何人の走者を出したかを表す数値で、「WHIP」=(与四球+ 被安打投球回ということになる。

一般的に、先発投手なら、この数値が1.00未満なら球界を代表するエースと評価され、1.20未満ならエース級、逆に1.40を上回るとエース失格と評価れている。

熱心な野球ファンが調べたデータによると、2017年度・セ・リーグ投手成績「WHIP」ランキングは、以下の通り。

1位 菅野智之(巨人)が0.85。

2位 マイコラス(巨人)が0.98。


秋山拓巳投手
3位 秋山拓巳(阪神)が1.09。

今永昇太投手(ウィキ)
4位 今永昇太(DeNA)が1.13

田口麗斗投手(ウィキ)
5位 田口麗斗(たぐちかずと・巨人)が1.22

5位 野村祐輔(広島)が1.22

7位 井納翔一(いのうしょういち・DeNA)が1.27。

7位 バルデス(中日)が1.27

9位 大瀬良大地(おおせらだいち・広島)が1.28

10位 大野雄大(おおのゆうだい・中日)が1.31。

以上、どこまで正確性を有するかについて断定できないが、この「WHIP」ランキングは、概(おおむ)ね、セ・リーグの防御率ランキングと重なるので、大きな誤差が生じると言えないだろう。

いずれにせよ、これを見ても、巨人の強力な先発三本柱の存在価値の大きさが理解できる。

中でも、菅野智之の0.85という数字が突出している。

この事実は、一頭地を抜く菅野の能力の高さが、ここでも裏付けられている。

因みに、借金返済のたに、広島戦での中4日(7月5日)に加えて、6月からの中日戦から中5日を解禁し、以降、菅野智之は繰り返し中5日登板を任され、結果を出し続けてきた。

侍ジャパンに招致された他チームの多くの投手と、そこだけは切れ、WBCのエースだった疲労を全く感じさせない、この「WHIP」の数字は、ブルペンに無理して入らず、体を休ませる、菅野流の「体⇒心⇒技」によるコンディショニング作りの所産だったのである。


侍ジャパン・アメリカ戦(準決勝)の菅野智之

【リンク先は全て転載画像です】

【参考文献・参照・引用資料】

読売ジャイアンツ 菅野智之投手「心技体ではなく、体心技の考え方ttp://www.hb-nippon.com/interview/1507-intvw2016/6946-20160519no405?page=3  史上最弱巨人の救世主、菅野智之の「魔球」が打てない理由 『小林信也』」「オピニオンサイトIRONNA」  サイトマップ・セレンディピティ「心技体の考えを取り入れ、ブレない軸を作る5つの方法」  データで楽しむプロ野球  巨人・菅野智之の進化とは?WBCの経験で得た投球フォームや投球術の変化とは?6月4日放送「Get Sports(ゲットスポーツ)」から  伸びる球の投げ方-ダルビッシュの練習法  今や巨人のエース! 評論家7人の「菅野智之」論  菅野、28人斬り完封で虎・秋山に伝えた極意 高いプロ意識で7月以降の防御率0・65 【侍ジャパン】菅野、千賀…米国の強力打線に好投した投手陣 打線の援護なく力尽きる  巨人 2-0 阪神 ・菅野智之投手は9回を投げ切り完封で16勝目! 

(2017年10月)